last update 1999/6/17
レオーネ特集
『世界の偉人』第1部−7人の勇者−(全7回)
レオーネ特集《予告》
第1回『マルコムX』 白人はわるいよ
第2回『ガンジー』 バプーと呼ばれたマハトマ
第3回『ミック・ジャガー』−俺とミック−
第4回『ジョージ・ハリスン』僕はどうしたらいいの
第5回『ベン・オビワン』フォースとともにあらんことを
第6回『沖田艦長』ヤマト発進!
第7回『王選手』一本足打法への道
歴史物の番組が放映されていると,僕は必ず見入ってしまいます。遺跡。史跡。文献。記録
フィルム等々。何故なのか,自分でもうまく説明出来ません。
小学生だったころ。僕は歴史的な物に興味はありませんでした。いつの誰々が何々したとか
…。僕は「今のことと,関係無いじゃないか」思いました。僕は名字が「土方」(ひじかた)と
言います。自己紹介で名乗るのが嫌いでした。みんなの前で名前を名乗る。とても緊張するん
です。名乗ったあと,いち早く自分の席に,つきたいじゃないですか。でもそうは行かないの
が自己紹介です。何かが起こるんです。僕の場合,先生の一言がつきまといました。
「ひじかたと言えば新撰組だね」
お願いだから早く席に戻して欲しい。更に「先祖はつながってるの?」と来る。その時には
恥ずかしさで顔が真っ赤でした。もう,つるし上げられた気持ち。「やめて先生」と思いまし
た。心から。
正直に言って歴史はいやでした。だから社会の教科書は落書きの刑にしました。偉い人の顔。
これは格好の獲物でした。真っ黒にしてやりました。だから僕は,偉人の顔のページがとても
好きでした。小学校の時「たま」「きん」「ちん」の音が教科書にちょっとでも出て来るとは,
すなわち大変な事態を意味していました。中学校ではそれが,社会科の時間に集中して起こり
ました。これが人の名前なのか。
「バスコ・ダ・ガマ」
すさまじいです。日本語的な感覚で想うと変なのです。そんな「文字」が清々粛々と並べられ
てるのです。拍車をかけて「笑うな」と先生がさらに言う。もう止まりません。
「伊東マンショ」
変じゃないですか?江戸時代に幕府の命令でヨーロッパに行った人です。旅の途中,キリシタ
ンになったので「マンショ」なったのです。この方について思うに「日本に帰って来た時,笑
われたよ」と想うのです。いのち懸けで帰ってきたのに。この人,テストに出たんですよ「伊
東」さん。
出題:この頃幕府がヨーロッパに派遣した4人の少年使節団の1名をあげよ。
でも解答者に数人いました。
「伊東マンション」
人物が建物に。
○追伸 僕は授業で教えられた人物や名称が出てくると笑ってしまいます。色んなことを想像
してしまうのです。「御家人(ごけにん)」と聴いただけで笑えます。それがとても激しいです。
とても耐えられません。ですからNHK教育がとても好きになりました。
例1:チグリス・ユーフラテス
例2:モホロビッチチの不連続面(モホ面)
例3:ホッサマグマ
例4:キューリー夫人
例5:ボストンお茶会事件
from 土方レオーネ
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1965年2月10日ニューヨークWINSラジオ放送
スタン・バーナードの電話討論会番組"Contact"から
番組司会『電話の質問を受けることにしよう。WINSコンタクトの電話番号はジャドソンの
2-6405です。こちらはコンタクトです。どうぞお話下さい』
女性の声『ハロー,マルコム』
マルコム『やあ』
女性の声『あんたなんかKKKに殺されちまえ』
マルコム『ウァハハーハハー』
番組司会『どうもありがとう』
『マルコムX・スピークス』(第三書館)より
新宿にあるクラブ「ガラム」というところがあります。時々僕はそこへ踊りに行くんです。
音楽の傾向としてはヒップホップレゲといった感じでしょうか。どこでもそうでしょうが,
お互いに他人なんだけれど会えば挨拶する人がいたりしますよね。踊りながら酒も入ってる
から陽気になって。でもその人について,実は全然知らなかったりする。やあやあと。
その時僕はヒゲをぼうぼうにのばしてました。眼鏡をかけて茶のラスタ帽みたいな(毛糸の
ぶかぶかな帽子と思ってもらえれば)をかぶってました。そこでいきなり言われたんです。
「いやあ,久しぶり。マルコムXに似てるね」
翌日,二日酔いの頭で考えました。おれが何で「マルコムX」なんだと。彼は僕の何を知っ
てるというのか。顔を洗ったあと,しげしげと鏡を見ました。僕は確かに唇が大きく張り出
しています。このぶ厚い唇が「マルコムさん」なのか。それともこのヒゲが「マルコムさん」
なのか。わかった。ヒゲ・くちびる・帽子・眼鏡の合せ技で「マルコムさん」なのだ。きっ
とそうだ。
それから数日間,僕の頭から「マルコムX」が離れなくなりました。そしてさらに疑問は広
がっていました。「X」が名字だ。そんなのありか。YでなくZでもない。なぜだ。確かに
人の名前について,とやかく言ってはいけません。失礼です。でも「似てる」と言われた以
上気になって仕方ありません。
だから僕手に入れましたよ。『マルコムX・スピークス』定価2400+税 著ジョージ・ブレイ
トマン 訳長田 衛(第三書館)表紙に大きく「X」とあります。来ました。みなさんの中でも
観た方がいると思います。映画『マルコムX』(米)監督スパイク・リー 主演ベンゼル・ワシン
トン。この映画が日本で上映された時,各書店で並べてあった「ブーム本」の1つした。で
もブームが過ぎた為に,探すのに大変苦労しました。
表紙に付けられた帯にはこうあります。黒地に銀文字で。
”アメリカで最も危険な男”が甦る
暴動として噴出するブラック・ゲットーの自立・自衛の暴力を肯定し、
ブラック・レボリューションの渦中に暗殺されたマルコムXの予言は、
アメリカ黒人大衆の魂をゆさぶり、
アメリカン・ドリームの悪夢をのろいつづける
マルコムXのすべてがここにある!!(第三書館)
これは覚悟が必要と思いました。すべてがここにあるのです。さてその本。僕は内容もよく
見ずに会計をすませました。帰りの電車でさっそく「X」の扉を開く。巻頭には『演説の前,
ノートに目を通す,マルコムX』と称された写真。自分で言うのもなんですが,僕と似てませ
ん。これははっきりさせたい。マルコムさんが頬杖をついて原稿に目を落とした写真。バスト
ショットです。近年,僕の顔立ちは「そら豆」によく例えられてきました。でもマルコムさん
の顔立ちはもっと「面長」です。
それは演説集でした。すべて演説です。ここに1963年〜1965年の間に行われた主要な演説が
収録されています。13本の演説とインタビューが2つ納められています。
ここで人物に少し触れましょう。
●マルコムX(1925−1965)本名マルコム・リトル。アメリカ ネブラスカ州生まれ
10代の時,強盗罪で入獄。そこでブラック・モスリムズに入信。
以後1965年に暗殺されるまで,黒人イスラム信者の急先鋒として白人中心の政治体制を批判。
ブラック・ナショナリスト。
マルコムさんはハイティーンの時,刑務所でイスラム教に触れました。その時に自分の名字「リ
トル」を「X」にしたんですって。つまり最少の「リトル」から未知数「X」へと目覚めたので
す。おれはX。僕の疑問が1つ解決。
僕がまだ高校生だった頃。社会科の時間にカセットテープを聞かされました。それは演説のテー
プでした。タイトルは"I Have a Deam"。マルチン・ルーサー・キング牧師の演説でした。内容は
有色人種・白色人種の調和共存をうたったものでした。演説のなかで"I Have a Deam"の言葉が
何度もくり返され,そのたびに聴衆が興奮してゆく。聴衆は最後のところでは発狂して大騒ぎ。
僕もいつしか教室で感動していました。となりの奴に涙をさとられない様に教科書で顔を隠した
記憶があります。
マルコムさんは激しいです。キング牧師の「非暴力による人種問題の解決」はアメリカでは実現
しようがない。さらに声高にキング牧師はアンクル・トム(白人にこびる黒人)であると言う。こ
れ激しい。この1963頃,アメリカでは「公民権運動」ということが起きてたんですね。この時
アメリカでは黒人の投票に制限があった。つまり黒人には,投票権が無い州があった訳です。黒
人暴動も多発しています。1992年に起きた「ロサンジェルス暴動」並みのことが,この頃にボ
ンボン起きてたんですって。いのち懸けです。キング牧師もマルコムさんも。
「ミシシッピー」という地名が,マルコムさんの演説にくり返し登場します。ミシシッピー州で
大変なことが起きました。投票の重要性と投票登録をすすめる運動の人が,3人いました。この
人達が警官たちに殺されたんですって。FBIを調査派遣した政府は,結局この警察官達を無罪
にしました。だから暴動がいつでも起きておかしくないアメリカだったのです。そしてベトナム
で戦争をながびかせていたのもアメリカでした。
マルコムさんは怒っています。どの演説でも怒っています。僕は思いました。アメリカでは,ま
たいつとなく暴動が起きてもおかしくないじゃないですか。そんな事を抱えてるアメリカが,中
東やどこぞへ軍隊を派遣してる。何ともへんてこです。いけないぞアメリカ。本を読み終えたあ
と,僕も怒ってました。すぐ影響されちゃうのです。
先日知合いがアメリカに行ってきました。ワシントンにあるリンカーン大統領の像のところ。そ
こでキング牧師"I Have a Deam"が流れていたそうです。でもね何か変だぞと思うわけです。
敵は1つだ。われわれは共通の敵を持っている。共通の抑圧者,共通の搾取者,共通の人種
差別者がいる。ひとたび敵が同じであるとわかれば,われわれは団結する。共通の敵の存在
を基盤に。共通の敵の存在,それはあの敵,すなわち白人である。白人こそ,われらすべて
の敵である。敵でない白人もいると考える人もいよう。だが,いずれわかるときがくる。
1963年11月9日デトロイトでの演説から
『マルコムX・スピークス』(第三書館)より
●神田徹氏(カイロプラクティック師)『こんどアメリカに言っておくよ。白人は業が深いよ』
from 土方レオーネ
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みなさん。社会の教科書に載っていた写真「鑑真(がんじん)和上像」を覚えてませんか。お尚
さんが座ってる像なんですけど。あれを見て「あれ,ガンジーはここにも居たのか?」と思い
ませんでしたか。僕だけ?
●鑑真(がんじん):中国唐の高僧。度重なる難破のため,失明しながらも6度目にして日本に渡来。
奈良に唐招提寺を開く。
第2回『ガンジー』バプーと呼ばれたマハトマ
「昭和」という1つの年号が終わり90年代が始まろうとしていました。その頃,世間では
「ミニ政党」というものが乱立していました。参議院選挙です。アントニオ猪木率いる「ス
ポーツ平和党」をはじめ,政府に未確認飛行物体の情報公開を迫る「UFO党」性の平等を
訴える「雑民党」「サラリーマン新党」「税金党」「進歩党」等々がありました。国会に卍
固め!というシールを,僕は強烈に覚えています。イノキ。ボンバイェー。
その当時,僕はというと,仲間とさんざん飲んでいました。もちろんアルバイトはしてい
ましたが。普通に飲んでたというよりも,かなり危険な飲み方でした。変に思われるでしょ
うが,僕は褌(ふんどし)を愛好していました。ズボンの下は褌でした。「何考えてんだ」と
言われても致し方ありません。はきたかったのです。
それは司馬遼太郎著「竜馬がゆく」の影響でした。 居酒屋では,いつも竜馬の話に力が
入りました。必然的にその熱さは参院選にも…。池袋の駅前を褌姿で走ったこともあります。
もし目撃された方は,この場をお借りしまして深く御詫びいたします。あれは僕です。
立教大学に演劇研究会の部室がありました。当時,木造のバラックで部室の集合世帯でし
た。それは下町の長屋のようでした。となりの音なんか筒抜けです。夏は蒸し暑いし,冬は
極寒でした。その部室には,誰が持ち込んだのか分からない日本酒が,いつもごろごろして
いました。僕はこんなに詳しく書いてますが,立教生ではありませんです。でも知っている
んです。その部室のお酒はほとんど飲みましたから。
わかりました。書きましょう。当時,僕は工事現場のガードマンをしてたんです。そして
立教在学の友達で,演劇研究会の芝居に出てる奴がいたんですね。出演者がいないから,お
前出てくれよと言われたのが僕。ほぼ4年間出入りしていました。在学もしていないのに。
各方面の方々,当局の方々,この場をお借りしまして,深くお詫びいたします。あの時,出
入りしていた部外者。それは僕です。
その日の夕方,演劇の基礎肉練(肉体訓練のこと)を終え,部室で飲んでました。8人ぐら
い居たのかな。うまくない日本酒でね。でも,みんなぐびぐびやりましたよ。しばらくして
話は選挙のことになっていました。二十過ぎてるんだから立候補できるぞってな具合で。
そこでは,みんな勝手に即興の政党名と,公約を名乗って騒いでました。僕も考えました。
その名は「日本ガンジー党」。直感的でした。選挙ソングも決めました。ジョン・レノン「イ
マジン」です。でも困ったことがありました。「選挙公約は」と聞かれるとよくわかりませ
んでした。誰かが言いました「ガンジーは無抵抗主義だから,消費税にも無抵抗」。
僕は,何とも返答できませんでした。これは悔しかった。はたして『ガンジー』てどんな
考えの人だったんだろう。
ここに一冊の本があります。『人類の知的遺産 64 ガンディー』 著 森本達雄(講談社)
ぶ厚いカバーケースに守られています。この本は近所にあった古本屋で買いました。当時5
00円ぐらいで買ったと思います。なぜ買ったのか。それは,もちろん日本ガンジー党の
「選挙公約」を作るためでした。
この本は,ガンジーの全生涯の出来事を一冊にまとめたものです。この時すでに,僕は
映画を観ていました。それは『ガンジー』(82英印合作)監督リチャード・アッテンボロー主演
べン・キングスレイ(アカデミー作品賞・監督賞・脚本賞・主演男優賞・撮影編集賞・美術監督装置
賞・衣装デザイン賞以上7部門授賞)です。でも,劇場でなくテレビでした。民放がテレビで
放映したのです。ですから僕が最初知ったガンジーさんは,日本語をしゃべってました。
涙しました。即ビデオに録画しました。ベータで。僕のガンジーさんは,その映画のガン
ジーさんのままでした。だからこの『人類の知的遺産 64 ガンディー』著 森本達雄(講談社)
のページをめくるたび,映画のシーンが頭のなかを動いていきます。そこでまた涙です。映
画の好みは人それぞれですが「傾向と対策」といいましょうか,ツボがあるんですね。例え
ば,家族ものに弱い人あり。ラブロマンスものの人あり。父と子に弱い人あり。スパイもの
に弱い人あり。僕は「勇気がためされるもの」に弱いんです。燃えると言うより,弱いんで
す。ですから『宇宙戦艦ヤマト−さらば愛の戦士たち』は名画です。
さてガンジーさんです。人物に触れましょう。
ガンジー(1869−1948)本名モーハンダース・カラムチャンド・ガンディー。
インドポールバンダム生まれ。
20の時,イギリスに弁護士資格取得のため留学。
24の時,南アフリカで働いていたインド人たちの,弁護顧問として赴任。
そこでインド人労働者の人権運動を開始することになります。
後ち数年後,インドでイギリス政府からインドを独立させるため各地を奔走。
以後約50年の解放運動をへて,1947年インド独立に成功。翌年1948に暗殺されました。
ガンジーさんは,その行動とカリスマ性でインド国民から,マハトマ(偉大なるたましい)と
呼ばれてたんですって。だから「マハトマ・ガンジー」という言い方は,本名じゃないのです。
ガンジーさんはそう呼ばれるのが嫌だったので,バプー(お父ちゃん)と呼ぶと喜んだそうです。
ガンジーさんは,イギリスに何回か行ってます。一番始めは20の時。これは留学でした。そ
の時,近所のイギリスのおばちゃんが,いろいろ世話してくれたそうで。肉は食えないよって言
ってるのに,肉料理もって来たり。頼んでないのに,お見合い写真とかを持ってくる。他国で肌
の違う人々の中,嬉しいじゃないですか。ガンジーさんは,以後いろんなことで「イギリス政府」
とは対決しますが,「イギリス人」を憎むことはありませんでした。
インド解放の運動のなか。ガンジーさんがやった主なこと。
○相手の暴力を,この身体に受けることで,相手に間違いを知らせる(非暴力)
○イギリス製外国製品を買わない(当時経済的にインドを苦しめていた,イギリス製品を集めて
燃やしちゃう)
○ゼネラルストライキを行う(インド全土をお休みにしちゃう)
○差別的な法律を,わざと違反して捕まえてもらう(刑務所を満杯にして,大変にしちゃう)
○各家庭で糸と紡ぐよう薦める(イギリス製の布の代わりに,自分ちで作っちゃう)
一人でやったらどうもしないでしょうが,インドにはインド人がたくさんいます。何千万人
の人が一斉にやるのです。だから,ガンジーさんが「今日は祈りの日にして,おーやーすーみ
ー」と言ったら全部お休みになっちゃう。家でみんな南無南無です。何千万人。ナムナムです。
ガンジーさんが「塩はイギリス政府の専売だけど,海に行って,つーくーるーぞー」もう大変。
みんなで検問を押しあけちゃう。みんなが「塩づくり。塩づくり」ガンジーさんが「イギリス
製のサリーは,すーてーるーぞー」と言ったら,みんなその場で服脱いで山にする。おまけに
火をつけて燃しちゃう。インド全土で。これはイギリス政府たまりません。当時インドでは,
イギリス人の総督がお城にいて,生活の全部に税金をかけてたんですね。それをイギリス国に
納金してた。これじゃ商売あがったりです。
僕は燃えていました。すごい。ガンジーさんすごい。この視点が僕の「日本ガンジー党」に
必要だと思いました。数週間して,本を読み終えたあと。涙と決意がありました。「ガンジー
は何にでも無抵抗」とは言わせない。新たな決意のもと,風に胸をはり,僕は学内の部室へ行
きました。しかし何か空気が違います。ガンジーさんの話に誰も聞き耳を立ててくれません。
みなさん,お解りでしょうか。参議員選挙は終わっていたのです。僕が本を読んでいた間に。
●神田徹氏(カイロプラクティス師)「ガンジーって,俺のおじいちゃんに,すげー似てるのよ」
from 土方レオーネ
………………………………………………………………………………………………………………
付録 ガンジーさんの主な年表
………………………………………………………………………………………………………………
1869 インド ポールバンダムに,ガンジーさん生まれる。
1881 ガンジーさんハイスクール入学。ガンジーさん喫煙や肉食を覚える。
1882 13歳で結婚するガンジーさん。
1885 ガンジーさんの父カバー・ガンディー死去。
1888 ガンジーさんの長男誕生。
1888 ガンジーさんイギリス留学。
1889 ガンジーさん菜食主義者となる。
1891 イギリスで弁護士資格取得。インドへ帰国するガンジーさん。
1892 ガンジーさんの次男誕生。
1893 ガンジーさん弁護士の仕事で南アフリカに赴任。
1894 南アフリカにて,ガンジーさんインド人労働者の人権運動を開始。
1897 ガンジーさんの三男誕生。
1899 南アフリカのボーア戦争に,ガンジーさんインド人野戦衛生隊を率いて従軍。
1900 ガンジーさんの四男誕生。
1901 インドに帰国。インド国内を旅するガンジーさん。
1902 ガンジーさん南アフリカに戻る。
1904 南アフリカで農園を開設。運動機関の週間紙を発行するガンジーさん。
1906 南アフリカにて,ズールー族叛乱発生。イギリス側に従軍。
負傷者の看護に当たるガンジーさん。
1906 純潔生活に入る(奥さんとの合意で性生活をやめるガンジーさん)
1906 南アフリカにて,ガンジーさんアジア人登録法案に反対。闘争を開始。
1906 イギリスへ陳情するため,ロンドンに行くガンジーさん。
1907 南アフリカにて,アジア人の強制登録法案制定に反対。ガンジーさん逮捕される。
1908 ガンジーさん禁固2ヶ月の判決。
1909 問題交渉のため,ロンドンに行くガンジーさん。
1913 南アフリカケープ植民地にて,キリスト教以外の結婚は無効とされたため抗議。
ガンジーさん大行進を決行。
1913 ガンジーさん懲役9ヶ月・重労働3ヶ月の判決。
1915 インド帰国。この頃からガンジーさんサンダルと白い木綿のインド服になる。
1916 インド各地を旅するガンジーさん。
1919 ローラット法案反対運動を起こす。インド全土のゼネラルストライキを組織する。
しかし民衆が暴動事件を起こしたため停止,断食するガンジーさん。
1920 外国製品のボイコット。ガンジーさん手紡ぎの奨励など非協力運動を展開。
1921 ボンベイでイギリス製織物を焼払う。腰布だけの着用を決意するガンジーさん。
1921 イギリス皇太子が,インドを訪問する。この時,ガンジーさん弔旗で迎える。
1922 民衆がまた暴動事件を起こしたため,非協力運動を中止。断食するガンジーさん。
1922 ガンジーさん逮捕される。禁固6ヶ月の判決。
1924 ヒンデゥー教徒とイスラム教徒の融和をうながすためガンジーさん断食する。
1928 サイモンゴーバック運動を展開。
1929 カルカッタで外国製織物を焼いたため逮捕されるガンジーさん。
1930 ガンジーさん塩の行進をする。そして逮捕される。
1931 会議のためロンドンに行く。ガンジーさんチャップリンに会う。ロマン・ロランに会う。
1932 ガンジーさんボンベイで逮捕される。獄中,カースト別選挙に反対して断食する。
1933 ガンジーさんの奥さん逮捕される。
1935 ガンジーさん健康すぐれず,ボンベイで静養。
1940 参戦反対,言論,出版,集会の自由を要求してガンジーさん不服従運動を指導。
1942 ガンジーさん逮捕される。
1943 ガンジーさん獄中で無条件釈放のため断食する。
1944 奥さん獄中で死去。75歳
1944 ガンジーさん釈放。
1945 列車爆破事件にあうが,ガンジーさん助かる。
1946 ガンジーさん東ベンガルを行脚して,ヒンデゥー=ムスリムの宗教騒動を鎮めるよう努力する。
1947 ガンジーさんインド独立式典に参加せず,ヒンデゥー=ムスリムの対立を鎮めるため断食。
1948 ガンジーさん再び断食。ヒンデゥー国粋主義の青年に暗殺される。79歳
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